窓を開ければ、近所の屋根は、１枚残らず白く霜に染まっているだろう。
都会にわずかに残った土の上を歩けば、サクサクと霜柱が音をたてるだろう。
尚人は、覚悟を決めると跳ね起きて、夏の十倍の速さで着替えた。
日曜日。
学校が休みだというのに、早々と朝食を済ますと外へ飛び出していった。
尚人は、１３歳、中学２年生である。
走りながら、自分の息が真っ白なのに驚いた。
明け方の光は、弱く、暖かさを感じなかった。
公園の並木は、枝の１本１本を、寒風が吹く青空に張り付かせていた。
地面に落ちた枯葉は、白々と霜が降りていた。
尚人は、公園に駆け込むと、水たまりの氷を割り、霜柱を踏みしめた。
朝一番に公園に来た者の特権である。
尚人は、公園を駆け回り、一通り特権をはたした。 尚人は、頬を赤くし、肩を上下させ、白い歯を見せた。
冷気の中でうっすらと額に汗をうかべていた。
「今日は、寒いな」
尚人は、つぶやいた。
すると、
「これが、寒いですって？」後ろから声がした。
尚人が振り向くと、同じ歳くらいの女の子が立っていた。 赤いマフラーをまいている。
尚人は、公園に自分一人しか居ないと思っていたので、目を丸くして言った。
「君は、寒くないのかい？」
「寒いけど。もっと寒いところがあるわ」
「それは、もっと来たの方の話だろう」
尚人は、唇を尖らせた。
「ちがうわ。ここの近くよ」
「ここの近くなら、みな同じだろ。北海道や東北なら寒いだろうけど」
少女の目は、笑っていた。
「じゃあ、案内してあげるわ。わたしについて来て」
「どうして、ボクが行かなきゃならないんだ」
「ふふふ、あなたも駆け回れないほど寒いところよ。それは、それは寒いところですもの。信じないのならついてきてくれる」
尚人は、おかしな子だなぁと思ったが、好奇心が抑えられずうなずいた。
女の子は、笑いながら振り向き、駆け出した。
尚人は、あとを追いながら、奇妙なことになったなぁと思った。
赤いマフラーの女の子は、町の方へ走っていった。ビルが建ち並ぶ繁華街。まだ、人影も疎らだ。２人は、ビルの間の狭い路地に入っていった。路地と言っても、人もすれ違えそうにない隙間だった。
古びたコンクリートの壁にある戸の前で女の子は、立ち止まると尚人の方にクルリと向き直った。
そういえばこの子、一度も振り向かなかったなと、尚人は思った。
「ここから入るのだけど、驚かないでね」
女の子は、木製の重そうな戸の前で唇を堅く結んだ。
尚人は、その眼差しに押され、戸を見つめた。
女の子が、扉を開いた。中は暗く、よく見えない。
「入ってみて」
「こ、この中にかい？真っ暗だよ」
「こわいの？」
「まさか」
尚人は、ゴクリと唾を飲み込むと、腰をかがめて中をのぞき込んだ。
すると、突然、後ろから、女の子が尚人を突き飛ばした。
尚人は、建物の中に飛び込んでしまった。女の子も、つづけて入ると、扉をバタンと閉めてしまった。
そこには、扉がなかった。
尚人の背中に冷たい汗が流れた。
「なにするんだよ！出してくれ」
「大丈夫よ。目をこらして見て。あなたには、見えるはずよ」
尚人は、雪の上にひざまづいている自分に気がついた。
風雪が、背中に吹き付け、尚人のジャンパーの中のぬくもりを奪った。
風景は徐々に光を取り戻していったが、 女の子の顔がよく見えないほどの吹雪だった。
「寒いでしょう」
「さ、さむいこ、ここが君の家なのかい？」
尚人は、鼻水を垂らしながら言った。
「違うわ。ここは、わたしの世界よ。家は、もっと、向こうにあるわ」
女の子が指を指した方向からは、激しい粉雪が吹きつけ、目を開けていられなかった。
「寒いけど、わたしの家に来て」
女の子は、歩き出した。
「まってくれよ」
尚人は、こんなところに置いて行かれては、かなわないと思い、後を追った。
吹雪で、前を見てはいられない。下を向いて、女の子の赤い長靴を見つめながらついていった。
雪は、灰色だった。自分が知っている雪は、もっと白かったと思った。
「この世界は、もう何年間も冬のままなのよ」
尚人は、真っ赤になった耳で、女の子の言葉を聞いた。
「何年間も冷え続け、こんなに冷たくなってしまったの」
尚人の足の先は、凍えて痛み、やがて感覚がなくなった。
「どうして、どうして、冬が終わらないんだ？」
尚人の問いに答えずに、女の子は、黙々と進んでいく。
「ま、まだなのかい。ずいぶん遠いんだな。近くだって言ったじゃないか」
「まだ、５分も歩いてないわ。寒いから、長く感じるのよ」
尚人は、寒さで自分の感覚が麻痺しているのだと悟った。
尚人は、疲れ切っていた。
「あ、あそこ」
女の子は、立ち止まり、指を指した。微かに灯りが見えた。
「家だ。こんなに近くにあったなんて」
吹雪が灯りをかき消し、近づくまで見えなかったのだ。
２人は、走りだした。
女の子は、家の扉を乱暴に開けると叫んだ。
「母さん、お客様よ」
「う〜、さむいさむい。あら、珍しい、こんな寒くて冷たい世界にお客さま？」
女の子のお母さんは、寒さに身を震わせながら言った。
家の中も、すきま風が吹き込み、寒かった。
尚人の体は、冷え切って、震えが止まらなかった。
「寒いでしょう。これでも召し上がれ」
お母さんは、白い湯気を立てているスープを運んできた。
尚人の体は、お礼も言えないほど、凍えていた。
女の子と母親は、無言でスープを口に運んでいる。
尚人が震えるスプーンで、スープを口へそそぎ込んだとき、
「あったかい」
とつぶやいた。
その瞬間、女の子と母親は、丸い目で尚人の顔を見てから、２人で顔を見合わせた。なにか、忘れていたことを思い出したようだ。
すると、どうしたことか、尚人の体にぬくもりが戻ってきた。女の子と母親の頬にも、赤みがさしてきたようだ。吹雪の音が止んだ。窓に凍りついた雪も解け、光が射し込んだ。女の子は、外へ飛び出した。尚人も後に続いた。 大地をおおった雪は消え、若草色に変わっていた。
少女は、赤いマフラーを、青空に向かってほおり投げると、尚人に言った。
「あなたが、見つけてくれたのよ。この世界の暖かい春を！」
尚人は、目を開けた。いつ目を閉じたのか覚えていなかった。ほんの一瞬の瞬きだったのかもしれない。尚人には、やけに長い瞬きをしていたように感じた。
そのとき、尚人は、いつもの公園に立っていた。公園に近づいてくる子供達の声が聞こえた。尚人は、１枚くらい氷を残しておいてやるんだったと思った。
尚人は、１２月だというのに、春を探しに街を歩いた。
このまま、春を見つけられずにいたら永遠に冬がつづくのではないかと、思われたからだ。